化哲感想

アファンタジア(映像を想像できない) 2013入社(メーカー技術)

超人への誤解の解消ーー『飲茶の「最強! 」のニーチェ』と『正義の教室』を読んで

超人についての疑問

 『飲茶の「最強! 」のニーチェ』を1年前くらいに読みました。大体はわかった気がしたものの、肝心なことがわかりませんでした。以下の2つの疑問があったのです*1

  疑問①超人と宗教的な人って、結局同じなのではないか?
  疑問②超人になるのは不可能なのではないか?

 しかし最近、同著者の『正義の教室』を読み、納得できてきたので整理しておきます。

分類のおさらい

 持つ価値観の種類の違いによって、人は「宗教的な人*2」、「末人」、「超人」に分けられます。

 「他人の価値観 = 絶対的な善 = 背後世界」を信じる人が「宗教的な人」です。彼らにとって、何が良いことなのかは宗教の教義や世間の常識が決めます。

 末人は、そういった他人が決めた「良いこと」は絶対的なものではなく、人それぞれだということに気づいた人です。自分がどうすればよいのかわからない状態です。

 超人は自分の価値観に従って、何が良いかを自分で考えます。それにより、自分がすべきことを判断します。今の自分を肯定します。

 

過去の私の疑問

 以下、過去の私の疑問を並べておきます。

疑問①宗教的な人と超人って、結局同じなのではないか?

 絶対的に良いことなんてないとわかっていながら、自分で良いことを考えるというのは結局、自分で自分を騙しているのではないのか。正しくないとわかっていることを正しいと自分に言い聞かせることになるから。生み出したのが自分だろうが他人(社会)だろうが、価値観自体が幻想であって、それにとらわれるのは間違いなのではないのか。「他人の価値観 = 絶対的な善 = 背後世界」の正しさを自明として疑わない立場=「宗教的な人」 と「超人」は、一周回って同じ穴のムジナではないのか。

疑問②超人になるのは不可能なのではないか?

 一時的に自分が良いと思うことをやれるようになったとしても、そのうち、「ああ、どうでもいいわ」と思って末人に逆戻りするのがオチだ。自分がずっと良いと思えることなんて、あるわけがない。なぜなら、絶対的に正しいことなんてないからだ。

 『最強!のニーチェ』で超人の例として、横断歩道の白いところ楽しんで渡る人が挙げられています。自分がもしこうなったとしても、すぐに飽きてしまって虚しく横断歩道を渡るだけの人になるだろうなと思っていました。

 また、自分が良いと思うことをするといっても、自分が良いと思えることなんて必ずしもないような気がしていました。

 

誤解の解消

f:id:okushishu:20190713215139p:plain

宗教的な人、末人、超人の違い

①他人の価値観を信じることと自分の価値観を追究することは違う

 私は結局、「他人の価値観 = 絶対的な善 = 背後世界」と「自分の価値観 = 今の自分にとっての善」の違いがわかっていませんでした。

 自分の価値観も、結局は他人の価値観の一部であって、どちらも絶対に正しいものではないのだと。

 客観的に見るとそれはそうなのですが、絶対的な正しさのみを追求する、その考え方が問題だったのです。これから脱却することが末人から超人になるために必要な飛躍だったのですが、そこに私は気づいていませんでした。

 私は絶対的に正しいことにのみ価値があり、一時的に自分が正しいと思えることに価値はないと思っていたのです。これはまさしく末人です。「自分の価値観=今の自分にとっての善」に価値がないと考え、思考停止を選んでいました。末人は、絶対的な正しさがあってほしいという願いに囚われ、そこにたどり着くことが全てだと思っています。

 大事なのは、「何が正しいのか考えること」=「思考停止しないこと」自体が良いことだという信仰*3です。それは『正義の教室』で正義くんが至った境地(自分の行為が正しかったのか悩むお父さんは正義だ!)です。絶対的に正しいことにたどり着くことはない。それでも、正しさを追究することは正しいのだという姿勢です。

 絶対的に正しいことに到達することは不可能という事実をまず受け入れないと、超人にはなれないのですね。

②未来の自分はともあれ、今の自分が正しいと思えれば良い

 ということで、横断歩道の白いところを渡るのが良いことだと思えなくなったとしても、そのときはそのときで、次に自分が良いと思えることを受け入れればよいのです。横断歩道の白いところを渡るのが「本当に」良いことなのかと悩んでも、答えがないことはわかりきっています。

 また、自分が良いと思えることなんてそもそもあるのかという疑問については、「あらゆる人間の思考は、『善い』を前提として成り立っている」(『正義の教室』p326)ことから解消されました*4

 

まとめ

 まとめると以下のようになります。

疑問①宗教的な人と超人って、結局同じなのではないか?

  いずれも何らかの価値観(善)に基づいて行動しているが、超人はたゆまぬ思考により「自分の価値観 = 今の自分にとっての善」を持っている。宗教的な人は、「他人の価値観 = 絶対的な善 = 背後世界」を信じている。

疑問②超人になるのは不可能なのではないか?

 将来、今の自分が正しいと思っていることを正しいと思わなくなるときがくるだろう。そうであっても、今の自分が正しいと思っていることを行動すればよい。思考することは良いことの追究であって、思考を停止しなければ超人になれる。

 

okushishu.hatenablog.com

*1:ヴィクトール・E・フランクル著『それでも人生にイエスと言う』や國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』を読んだときも、同じ疑問を抱きました。

*2:倫理的な人とも言える。

*3:ヒュームのギロチンとして紹介されている通り、論理的にこの結論は導かれない。また、永井均著『哲おじさんと学くん』で「祈りを拒否する祈り」として言及されている。私はこの信仰を持っている。

*4:池田晶子著『14歳からの哲学』p156「人が何かをするときは、必ず、自分にとって良いと思われることをするもので、悪いと思われることをするはずはない」のくだりが理解できるようになりました。