化哲感想

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「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 ——死の捉え方の誤り 剥奪説が正しいケースとは

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

書名に反し、著者は死を捉えそこなっていると思われます。死とは何かという書名とは裏腹に、死そのものについては軽く流して、生きている間の出来事についてばかり語っています。第3・4講に、著者の死の基本的な捉え方が書かれていますが、私には腑に落ちません。*1

第3講 当事者意識と孤独感──死を巡る2つの主張

信じるには思い描くことがたとえ必要だというのがたとえ本当だったとしても、そして、死んでいるところを内部から思い描けないというのがたとえ本当だったとしても、自分がいずれ死ぬのが信じられないということにはならない。外部から思い描きさえすればよいのだ。したがって私は、もちろん人は自分がいずれ死ぬと信じられるし、そう信じていると結論する。

「自分が死んだ状態を内部(死んだ私の視点)から思い描くことはできないが、外部(他人の視点)から思い描くことはできる」ということをp64-74で述べ、「自分自身の死というものはある」と主張しています。

これはある意味では正しくある意味では誤りです。「たくさんの人間たちのうちの一人であるこの私という人間」という意味での自分は確かに死にます。一方、「この世界が現に見えている視点としての私」は死にません。というより、私が死ぬことも死なないこともありません*2

p68で著者自身が述べているように*3死ぬことは当人にとってどのようでもないのです。著者は後者の意味で自分(自身)と言う言葉を使わないようです。後者の意味で死を捉えないと他者の死しか考察したことにならないと思うのですが……。

第4講 死はなぜ悪いのか

第4講では、著者は死が悪い根拠として剥奪説を推します。

なぜ死は悪いのか? なぜなら、死んでしまったら、存在しなくなるからだ。そして、存在しないのは悪いとなぜ言えるかと問えば、答えは、人生における良いことの数々が味わえなくなるから、だ。もし自分が存在しなければ、生きて存在してさえいれば得られるものが得られなくなる。死が悪いのは人生における良いことを奪うからなのだ。

ここでは、生きていれば数々の良いことがあるということが前提されています(その前提を前提として明記しないあたりに著者の楽観的人生観が伺えます)。もっと極端に、これからの人生には良いことしかないと前提しておきましょう。当然、死ぬ前の身体的苦痛もないとします。しかし、この前提があっても、「私の死が悪い」とは言えないと思います。

剥奪説は、「死んだ状態」と「生きて、良いことを享受する状態」を対比し、前者の方が悪いと捉えます。しかし、そもそもこの対比は不可能だと私は思います。第3講p68で著者が認めるように、死ぬことは当人にとってどのようでもないからです。死んだあとは、当人がいないのですから、当人にとっての良し悪しの基準自体がありません。「私たちが死んでさえいなければ人生がもたらしてくれただろうものを享受できない」と言いますが、享受できないことすらもできないはずです。「できる」も「できない」もいずれもありません。死ぬと、剥奪説の言うところの、人生がもたらしてくれる良いことを剥奪される可能性自体が剥奪された状態になります。著者の主張はあくまで第三者の視点からの比較です。第三者が、とある人物が死ぬ場合と死なない場合を想定し、前者は当人がいいことを享受する機会を持たず、後者は当人がいいことを享受する機会を持つとみなしています。これは何も問題ありませんが、他者からの視点は私には重要に思えません。

ある意味では、死ぬといろいろな経験ができなくなるというのは正しいと感じることもできます。でもそのように感じているとき、いつの間にか死んでいない他者の視点に立っているはずです。冷静に考えれば、死んだ後は経験するということも経験しないということもありません。

著者は第4講の後半で、存在要件について語ります。存在要件は、悪いと言えるためには当人が存在しないといけないという要件です。私にとってこれは当然のことなのですが、著者は、死は悪いはずなので存在要件が誤りであるはずだ、しかしそうするとこれこれの矛盾が生じる……などと論じていきます。このあたりは私にはほぼ無意味な議論でした。

こんな記述もあります(p129-130)。

ある人の人生を考えてほしい。その人は長く素晴らしい人生を送ってきたとしよう。彼はこの世に生まれ、10年、20年、30年、40年、50年、60年、70年、80年、90年と生きてきた素晴らしい人生だ。さて、その人が90年生きる代わりに、10年、20年、30年、40年、50年と、もっと短い人生を送ることを想像しよう。本来は90歳まで生きられたのに、50歳で死んでもらう。もちろん、これは彼にとって悪いことだと私達は言うだろう。

その「彼」が死んでもういなくなったのに「彼にとって」悪いと著者は言います。どういうことでしょうか? そもそも90年生きる代わりに50歳で死ぬというのはこの想定では当人は知らないはずです。それなら、彼は90年生きる代わりに50歳で死んだと認識することはありません。「もっと短い人生を送ることを想像しよう」というのは他者の視点から想像しようという意味のはずです。

 

ということで、著者はおそらく死ぬ当人の視点に立ったつもりが立っていないまま論を進めているのではないかと思います。

ただ、少し設定を変えると、著者の言う剥奪説が成り立つ場合があることに気づきました。

 

剥奪説が正しい場合

剥奪説が正しいのは、これから死ぬ当人が、死ぬタイミングを自分で選べる場合です。以下の場合を想定してみます。これらの前提は当人も知っているものとします。

・今後の人生には良いことしかない(ここまでの議論の前提)
・ボタンを押すだけで、身体的苦痛なしに一瞬にして安楽死できる装置がある
・ボタンを押さない限り死なない

これなら、死ぬタイミングを当人が自由に決定できます。

それでは以下の2パターンのどちらが当人にとって良いでしょうか?

・5分後にボタンを押して死ぬ
・10年後ボタンを押して死ぬ

この2パターンの間の差は、これからの(良いことしかない)人生の長さのみです。

死ぬこと自体には良いも悪いもありません。それなら、良いことを多く経験できる後者の方が良いといえます。これは2つの人生の比較です。前者は、後者と比べて良いことの経験が少ないため、まさに剥奪説の通り、前者を選択することは良いことを剥奪することになります。

私はこれまで、自分の死が良くも悪くもないのであれば、なぜ私は自殺しないのかという疑問を持っていました(私には今の所、自殺願望がありません)。死への本能的恐怖くらいしか説明が思いつかなかったのですが、剥奪説はこの疑問への有力な説明になり、スッキリしました。

 現実の人生には良いことも悪いこと(傷病や退屈など)もあり、いつ死ぬのがいいのかは難しくなります。これについては本書の第5-9講で快楽計算を用いて語られています。この快楽計算についても本書では単純化されすぎている印象がありますが、まだ私の考えが整理できていません。

 

著者の人生観

本書を読む限り、著者は以下のような実感を持っていると見受けられます。
・人生が現に充実しており楽しい。虚しさは不死にならない限りない
・大きな肉体的苦痛はよほど不運でない限り、老化するまではない
・人生における経験、出来事(数学研究など)に素晴らしい意義があり、味わうための時間が足りない

私の実感とかけ離れているため読み進めるのに時間と労力がかかりました。

私の実感は以下のようなものです。
・人生には楽しいときもあるが虚しいときもある。
・精神的に辛いというより肉体的に辛いときが多い。つまり、体が疲れやすい。
・人生における経験、出来事には突き詰めて考えれば意義がない。ただの気晴らしにすぎない。

 

ところで、須原一秀氏の「自死という生き方―覚悟して逝った哲学者」を読んだ限り、須原氏もケーガン氏に似た人生観を持っているようです。いずれ読み直して整理したいところです。

*1:ちなみに私は池田晶子氏、永井均氏、中島義道氏の著書をいくつか読んできており、それらの影響を受けています。

*2:永井均氏や池田晶子氏がよく著書で述べていることです。池田氏はよく、「池田某」は死ぬが「私」は死なないと言います。
永井氏は『哲おじさんと学くん』p153で学に次のように語らせています。「自分の死を考えるとき、学が存在しなくなったと考えている僕が必ずいるんだ。だから、僕が死ぬということを、僕は本当は考えることができないよね。」

*3:「だからそれと同じで、死んでいるというのがどのようなことかに関しても謎などないと私は言いたい。どのようでもないのだ。そしてこの場合にも、この主張を誤解しないことが重要になる。死んでいるというのは何かのようである。ただし、それは他のあらゆるものと違うだけの話だ、などと私は言うつもりはない。そうではなくて、死については、言い表すべきことがなにもないのだ。人が死んだら、想像するべきことは何一つその人の内部では起こっていない。」