化哲感想

アファンタジア(映像を想像できない) 2013入社(メーカー技術)

やりたい仕事があるというのは稀有なこと 消去法でいい

「どんな仕事がしたい?」という質問

 私は「どんな仕事がしたいか?」という質問が苦手です。就活の際にはもちろん志望動機として聞かれますし、就職後も上司との面談では聞かれ続けます。なぜ苦手なのか? それはやりたい仕事がないからです。

 やりたい仕事がないというとやや語弊がありそうです。普段、仕事をしていて楽しさややりがいを感じることはあるので、「これまでどんな仕事が楽しかったか?」という質問ならば答えることができます。

 しかし、「これからどんな仕事がしたいか?」と聞かれると、「したい仕事はない」というのが素直な答えです。つまり、仕事をしなくてすむならそうしたいのです。ただし、現実に聞かれた際はそうは言えないので、楽しいと思えそうな仕事を消去法的に答えることになります。

子供から大人までつきまとう「やりたいこと」

 ふと気づいたのが、そういうぎこちない思いをするようになったのは社会人になってからでなく、小学生時代以降ずっとではなかったかということ。

 小学生の頃、将来の夢を書かされました。「警察官」と書いた覚えがあります。別に警察官にあこがれていたわけではありません。それ以外、どんな職業があるかを知らなかったので、他に書きようがなかったからです。将来の夢を書かされるような経験をきっかけに、将来の夢(=目指す職業)を考える子供がいるのでしょう。そんなことは書かされなくても自分で考える子もいるでしょう。しかし私は将来の夢を書かされて以降も、どんな仕事がしたいかを考えた覚えも何らかの職業に憧れた覚えもありません。仕事というのは、大人になったら仕方なくしなければならないものだと漠然と捉えていました。仕事に限らず、将来どんな暮らしがしたい、どんな物が欲しいというような展望も持ったことがありません。

 私の父は会社員でしたが、仕事の話をすることはめったにありませんでした。今でも父の仕事についてはよく知りません。母は専業主婦でした。さらに両親とも、特定の何かに打ち込む様子もありませんでした。ただのんびり気楽に生きていたと思います。貧困に苦しんだこともありません。そういった環境で育ってきたことが、私の気質に影響したのだろうと今となっては思います。

 やりたいことがない状態は中学、高校に入っても続きます。私は高校受験の際、一般入試に先立って推薦入試がある理数科を受け、そこに合格しました。別に理系科目が好きだったわけではありません(むしろ文系科目のほうが好き)。単にその方が、受験機会が増えて得だったからです。それと、その高校自体が地域トップ校でしたが、そのなかでも理数科が偏差値的に高かったことにも惹かれました。やりたいことはないが、とりあえず上に行けるなら行っておくに越したことはないとの考えからです。地方都市に育った私は、大学生というものを身近に見たことがなく、大学とはどんなところなのかというイメージを全く持ち合わせていませんでしたが、高校の次に行く学校は大学だという知識は持っていました。高卒で働くのは少数派でしたし、もともと勉強が得意で進学校に入った惰性で、とりあえず大学に行くことにしました。大学を目指すに当たり、志望校選びに苦労しました。どうやら大学には学部というものがあるらしいことを知りました。医学部やら工学部やらいろいろあります。やりたいことがなにもない私にとって、こんなに難しい選択はありません。結局、自分の手がギリギリ届きそうな範囲でレベルが高く、かつ入学後に専門を決められる大学を目指すことにしました。

 大学入学後も、相変わらず特に将来やりたいことがなく、それに焦りっぱなしでした。今はまだやりたいことがないがそのうち見つかるはず、いや、見つけないといけないという強迫観念に囚われていました。将来の展望を持った他の学生たちが輝いて見え、自己嫌悪に陥りました。結局やりたいことはないまま、消去法的に最も自分の肌に合う(大好きとは言えないが嫌いじゃない学問分野だった)薬学の道を選びました。研究室選びでは、就職が楽なのかとか、将来性があるのか等の「やりたいこと」以外の要素を延々と調べ続けました。こういうのはキリがないので、かなり疲弊しました。就活でも無難そうな会社を受けられるだけ受け、受かったところに就職して今に至ります。

 そんなふうに、仕事としてやりたいことが特にない人生を送ってきました。仕事と無関係なことなら、もちろんやりたいこと、楽しいことはありました。食べることと寝ることが私の最大の楽しみです。性欲もあります。これって生存のための本能ですね。三大欲求です。その他には、読書、アニメ鑑賞、考え事などなど。仕事とは無縁の単なる娯楽です。でも、これって自然なことだと思います。 

現代人に「やりたい仕事」がないのは自然 消去法で十分

 一般に、進路選択においては、「やりたいこと」を選ぶことが推奨されています。小学生には将来の夢を書かせ、中高生には将来やりたい仕事から逆算して進路を選ばせます。でも、ちゃんとやりたいことを持っている人なんてそんなにいるのでしょうか? 

 そもそも仕事になるような「やりたいこと」とはどんなことでしょう? 役に立つモノ、コトを作りたいというのが基本ですね。あるいは直接誰かの役に立つことです。誰かのためというのが欠かせません。でも、そんな抽象的なことをやりたいと本当に思えるものでしょうか? 私は仕事をやらなくて済むならやりたくありません。仕事をしないと生活に困るから仕事をするのです(退屈防止という目的もありますが)。まあ、身の回りが衣食住に事欠く人たちばかりなら、なんとかしなくてはと思うかもしれません(なんとかできるスキルがあるなら)。しかし、大抵の現代人は衣食住全て事足りており、そういった需要があまりありません。あるいは人よりはるかに得意なことがあってそれが仕事になるケースもあります(スポーツ選手、学者など)。そういう仕事なら得られる充実感(自尊心や承認欲求の充足と言えましょう)も大きいでしょうが、そんな仕事を得られる人、あるいはそんな仕事を目指すだけの動機を持つ人は限られています。

 そういうわけで、仕事としてやりたいことがない方が自然だと思います。自然だからといってそうあるべきだということにはなりませんが。

 しかし、この社会で仕事をしないで生きていくのはまだ簡単ではありません。これからも、やりたい仕事を聞かれたら消去法的に選んで答えることになりそうです。ただ、それで自己嫌悪に陥る必要はないということを忘れないようにしようと思います。

余談

「意識の高い人」と「低い人」は何が違うのかmeteorite1932.wordpress.com

 このブログの記事に共感しました。意識の高い人≒仕事に熱心な人というのは、幼少期にそうなるだけの経験をした人なのであろうという話。平和で成熟したこの時代、そういう人は少数派だと思います。

 

okushishu.hatenablog.com

 Yes!プリキュア5は大変な名作ですが、主人公たちが夢(やりたい仕事)を無理に模索しており、見ていて違和感があります。